7/3(土)『書きすぎ』

インターンでお世話になった人3人に連絡した。本当は4月とかに早々に済ませてしまいたかったが相変わらずの先延ばし癖でここまでズレ込んでしまう。「仕事を始めてちょうど3ヶ月経ち、身の回りが落ち着いたので連絡させて頂きました」というちょうど良い感じの理由を作り上げられた。

 

・みんな返信が早い。仕事ができる人はレスポンスが早いんだ。そして優しい。3人とも「連絡嬉しい!」「就職おめでとう!」「コロナ落ち着いたら飲みに行こう!」と言ってくれて…。なんて素敵な人達…。

 

・LINEを送る前は3ヶ月も先延ばしにするほど腰が重かったけど終えてみるとあっけない。そしてこういうことはやって後悔することはない。どんどん人に連絡して、好意も感謝も伝えて、遊びの企画もたくさんしたら良い!!その方が絶対ハッピー!!

 

・WSのことは後で書くよ。

 

・WS3回目。まだ3回目!?濃すぎて感覚がおかしくなってきた。今回もWSはあたしにとってカウンセリング、セラピーのような場になっていた。本当に参加できて良かったなあ。

 

・もっとみなさまの日記をちゃんと読み込んでくれんばよかったぜ!!予習が必要な授業に裸一貫で飛び込んでしまった感じだ。勉強についていけず落ちぶれた高校時代をなんとなく思い出した。

 

・「日記が淀みに感じられる」「日記をとっておくか否か」という話。日記を捨てるなんて考えられない!!もったいなすぎる!!!「淀み」というのは言わんとしていることはすごくよく分かる。「物にたまる気」「過去にすがる」「前に進めない」みたいなことが連想されるかもしれない。いつかどこかで、「悪い気は毛先に溜まっていく、なにか上手く行かないときは髪を切ったら良い」みたいな話を聞いたとき、確かに自分の髪先に重〜く悪〜い気が溜まっているイメージが容易に想像できた。

 

・ただあたしにとっての日記はそういうものではないな。全然淀んでない。過去(日記を書いてるときは今)の自分を外付けHDDにとっておいてる感じ。自分の内部ストレージを食ってるわけでもない。別に過去に固執しているわけでもない。記録することで思いっきり忘れられる。んだよな〜。

・あとはある程度の年齢いって日記が溜まったら(もしくは死ぬ前)に日記をまとめて本にしたいので絶対捨てられない。その本をどうするかとかではないけど、世界のどこかにはおもしろがって読んでくれる人がいるでしょう。刻一刻と世界の状況が激変し続けている今のこのタイミングの記述って50年後とかに読んだらすごくおもしろいものになってると思うよ(これは大学の教授の受け売り)。

 

・やばいな、これ長くなるぞ。

 

・「写真、その背景や物語は関係なしにその写真単体として視覚的に魅力のあるものが良しとされるのか?」という話。これはね、ヒジョーにビミョー。写真に限らず、映画やデザイン、絵画についてもあたしは同じ考え方をしているので全ての表現作品まとめてについてあたしの意見を書くぞ!!結論から言うと「表面的なものも、目に見えないコンセプトや背景等も、どちらも魅力的なのがベストで、あたしはものづくりをする人としてそういう作品作りを目指すべき」です。当たり前のこと言ってしまった?

 

・ただ、表面、内面どちらかが良いだけで十分良い作品だと言えると思う。

 

・表面だけが良い、というのは分かりやすい。映像がかっこいい!形が心地よい!アクションが凄い!色が素敵!話がおもしろい!グラフィックがイカスね!と、別にそこに特別おもしろいコンセプトや背景がなくたって心が動く良い作品だと言えると思う。

 

・逆に内面は良いけど表面イマイチなのは一見だめそう。見ただけじゃ分からんというやつは表現物としてどうなの?優れていると言えるの?と。あたしの意見としては、表面はパッとせずともコンセプトや背景を聞くと納得感があって作品の見え方が変わって良いものに見えてくる、というのも良いと思う。「最初見たらなんだかよく分からんけど話を聞いたらおもしろく見えてくる作品」って素晴らしくない!?その場合「最初見たときの分からなさ」がフリになって、作品の内面を知ったときの感動なり驚きなりがより大きくなるじゃんね。

 

・わけわからん絵画とか、作者の人生とかそのときの背景を知ってから見ると良いものに感じることとか多くない?ああいうのは特に「作者の人柄、人生」も含めて作品だと思う。

 

・ただコンセプトは良いのに表現のレベルが伴ってないというのはだめか。もっと表現を頑張ってくれ。

・「コンセプト」と「背景」を一緒くたに話を進めては駄目なのかもしれない。よく分からなくなってきた。考えるのめんどくさくなってきた。

 

・まあなんだ。表面と内面が良いというのは2段階の面白さがある。多数の人から評価される作品の多くはどちらも伴っているように感じる。ジブリの映画とか、こどもが見てもアニメの表現とか大筋の話で楽しめるし、大人になってからその背景やコンセプト、裏側を知った上で見たらより面白くて違う見え方したりするもん。デザインにおいてもそう。すごく格好良い見た目のプロダクトがあったとして、それはきちんとしたコンセプトがあって材質選びにも、形状選びにも、機能的にも意味があって納得感のあるものが最高じゃんね。

・ただそういう「内面」は鑑賞者側が知らない、気付かない限りは、評価を行うその鑑賞者にとっては「ない」ものと同じなんだよね。だから表面が良くないと作品としてだめだという意見があったしても理解は出来る。いや〜でもあたしの場合は作り手でもあるしデザインを学んできて「そこにそれを配置する意味は?」「この線は画面上で役割を果たしていない」「どういうコンセプトで」みたいな世界で過ごしてきたので世の中の全ての人工物の「意図」を気にする方だからな〜。気になるでしょ。中身大事でしょ。

 

・ん〜もしかしてデザインと写真を一緒にしちゃだめか。デザインは「意図」で出来ているようなもんだしなあ。いや、写真も「意図」か?それを選んで撮ろうとしたという意思はあるのか。写真って「こういう理由で」「こういう風に見られるように」みたいに深く考えて撮ることそんなにないよなあ。写真家の人はそのへんがまた違ったりするのか?

 

・あー!写真ってシャッターを押せば誰でも撮れるもので凄く間口の広い表現方法なのか!!!!!!ほー!!写真って素晴らしいね!!写真に向き合い続けてるわけじゃないいわゆる「そのへんにいる人」で、対して深いことを考えずに撮ったものでもいい写真だったりすることありそうだな。うーん!むずい!

 

・混乱して論理が繋がらん。

 

・うーんと、でも、より高いレベルで優れた写真を撮ろうと思ったときには表面内面どちらも伴っているのがベストだな!!!

 

・あと別に優れていない作品にも優れていないという良さがあると思うよ。そういうものも愛しいよね。

・「日記」という大義名分を使ったら、パブリックな場所ではあたしの倫理観的に言えないようなことでも言えちゃう。あたしが自分勝手に書いた「日記」だから。それを「読む」という選択をした人に対して責任を押し付けているんだなあたしは。あなたが進んで読んでいるんですよと。それに甘えて大体のことは書ける。ただ唯一、生々しい性的な話は書けないな。それは書けん。

 

・自分で思っている自らの日記の印象と周りからの印象があまりに違って驚いたし安心もした。みんな優しい。こんなに許容できる人たちが集まるものなのか?世の中の人、そういう人たちばかりなのだろうか。あのワークショップに参加したいと思う人というところでフィルターが掛かったのか。

 

・やっぱりこの短期間でみんな色々ありすぎる。嬉しいことも大変なことも沢山。でも総じておもしろいな!と思ってしまう。これだから人生はおもしろい!!!!!人の数だけドラマがあるという言葉をここまで実感できることある!?すごく良い体験できてるぜ。

 

・お酒たのし〰〰〰〰〰〰!!本当にこんなに許容してもらえるのが不思議だ。心地良い価値観というか、なんだろう。そうだ、美大の人たちってこんな感じだったんだ。中高では趣味嗜好や考え方に対して「引く」「馬鹿にする」みたいな人が一定数いた気がする。美大に入ってからはそういうことがほぼなくなったのが衝撃だった。「美大の人はどうこう」みたいなくくり方は好まないけど流石にこの感覚は間違っていないと思う。美大の人は寛容だ。アブノーマルな趣味を持つ人が多いとか、感受性が豊かな人が多いとかそういうのが関係しているのでしょうか。みんな何を言っても引かないし、なんなら面白がってくれるし、違うことを否定せず違いを受け入れてくれる人がほとんどだった。

 

・大学4年間でバイト先のラウンジで多くの年上の人と接してきたけどどちらかというと中高で触れてきたような「違う価値観を否定する人」が多い印象だったな。今回のワークショップで「美術系でもなく」「年齢がそれなりに離れていて」色々なことを許容してくれる人が集まっていて交流していることが本当に初体験ですごく感動している。世の中って良い人多いんだな…。

 

・そして、5、10、15と歳の離れている人と話して、それぞれの考えがあって悩みがあって価値観があって生き方があることを肌身で感じられて、それがなんか、自分の年齢に対する不安やプレッシャーの解消に少し役立っている気がする。現在進行系で。たぶん25歳まできてしまったからこれからは今までほど自分に大きな変化はなくあっという間に歳をとってしまうんだな。30、40、50と。

 

・なんかみなさま賢い感じがする…!?

 

・あとは誰も気張っていないんだ。自然体に見える振る舞いが出来るのって羨ましいな。慣れないメンツとか大人数での交流って無理したり張り切ったりしがち。あたしも結構やってしまう自覚がある。

 

・___の人と合コン(あれは合コンと言えるのか?)したときに相手方の男の子たちのテンションが「照れ」と「張り切り」で異様に高くなっていた姿を思い出した。青々しくてかわいいとも言えるかもしれないがそういう緊張感は相手にも伝わってしまったりする。なんかこっちまで恥ずかしくなってきたりする。どちらかといえば「堂々」「飄々」「自然体」という人の方が好きだ。それも慣れによるものだと思うので年齢を重ねるごとに自然体で振る舞えるようになる気がする。

 

・酒も飯もうまい。ダイエット中なのに食べ過ぎた。

 

・自分が話しすぎていないかと不安になる。顔色を伺いすぎる癖はなおらない。

・ただなんか日記を書いてても思ったけど、否定されること、悪く思われること、嫌われることをそんなに怖がらなくてもいいよなと思えてきている。あたしを好きでいてくれる人と一緒にいることになるんだからどうせ。そういうことを頭でわかっていても実行に移せなかったところが出来つつある。好きに生きるぞ!!!

 

・ただね、自分のせいで人が嫌な思いすることのないようにね。それは嫌だもんね。

 

・「理想の母親像」についての話、卒制のエッセイで少し触れていた。子育てへの不安もつらつらと綴っていた。(久しぶりに自分の卒制読み返したらすごく良かった。「完全に同意」しかない。)

 

・例え話。受験期に遊びに行く自分を責めてしまう。でもたまには遊ぶのも良い息抜きになるというのも分かっている。それについて他人からどう思われても気にしなくて良いというのも分かっている。

 

・そのとき自分を責めてしまう理由はなんなのでしょう?「こういうときってこうするべきだよな」みたいなものに縛られている?自分を責めるポーズをとることで自分が「立派な人」であろうとしている?自分を責めることで逆に遊ぶことへの罪悪感を減らしている?本当は周りにいる「受験期に遊ぶ人の姿」を見て「今時期よく遊べるな」と批判的に思ってしまっているから自分のことも責めてしまう?他人にそういう風に思われたくないから?

 

・第三者の目線からを想像して「これは良くない」と思われるだろうな、なのか。もう一人の自分が自分の行動をみて自分自身「これは良くない」と思うのか。そのへんが曖昧になってしまって、「自分が良ければ良い!」みたいなことを胸を張って思えなくなってしまうことがあたしあるなあ。

 

・たばこ、前回の終わったらしばらく買わないって言ってたけどたばこの話したら買いたくなっちゃった。___________________________

 

・________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________

 

・これはめちゃめちゃ本当に心から思うけど、生まれつきお顔の造形が美しい人は超絶恵まれている。こんな事する必要も、こんな事考える必要もないんだもん。とっても羨ましい。でもあたしの顔も嫌いじゃないよ。あと他に色々相当恵まれている自覚はあるのでそれには感謝を忘れないよ。人間どこまでいっても欲は尽きず、隣の芝生が真っ青〜に見えるものだ。